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国際開発工学科の教育理念についての思い出

 

太田秀樹(前国際開発工学専攻教授

(現 中央大学・研究開発機構・専任研究員機構教授、東京工業大学名誉教授))

 

   私は平成21年3月31日をもって、東工大国際開発工学専攻を退職いたしますので、退職にあたってのご挨拶として新カリキュラムについて書かせていただきます。開発システム工学科は10年以上にわたって、化工・機械・電気・土木の4コース制をとってきました。4つのカリキュラムがある訳ですが、独自に4コースを開講しているのではなく、4つの親学科のカリキュラムにおんぶしてもらう形でカリキュラムを維持してきました。

4つのコースを別々に開講するのではなくて、開発システム工学科独自のカリキュラムをひとつだけ開講すれば、他の学科と同じような体制になりますが、これを実現するためにはアレコレいろいろな難しさがありました。やっと数年前から本格的に一本化カリキュラムの構築を始め、新しいカリキュラムを学ぶ1年生が去年から入学し始めました。永年の夢が実現したわけです。

新しいカリキュラムは、とても野心的なネライを持っています。それは、化工・機械・電気・土木といった伝統的ではあるが限定的な分野の教育をするのではなく、それらの伝統的な学科の主要な基幹科目をすべて教えようというネライです。昔から必修科目とされていたハードな科目を中心に、教えようというわけです。物理系でいえば、微分方程式に始って微分方程式に終わるといったタイプの数物科目です。

応用的な各論は教える時間がありませんから、限定的にしか教えないことになります。工学全部に通じる基幹科目を主として勉強しているから、どんな工学分野の会社に就職しても困ることがない。こういう学生を作ろうというアイデアです。食品・通信・家電・自動車・建設・プラント・繊維などといった専門分野は、会社に入ってから独学で十分習得できる人材をつくろうというネライです。

こういう教育を受け、国際的な素養も兼ね備えている人材の育成が、国際開発工学科の教育理念です。実現できれば、画期的な人材育成プログラムになります。

わが学科は、こういった教育をやります。全学でご支援ください。このような学科としての決意表明をした文書があります。学科として、全学に対して約束した誓約書であるとも言えます。これを下記につけておきますので、どうぞ目を通してください。国際開発工学科の原点です。

こういう試みに参加できて、私はとても光栄に感じております。ありがとうございました。

太田秀樹 (平成21年3月30日)

開発システム工学科の一本化カリキュラムの基本的考え方

文明の担い手としての工学が、人類に提供してきたものは、はやさ(迅速性)と便利さ(利便性)のふたつに集約される。伝統的な工学から得られる文明の利便、即ち、はやさと便利さは、より苦痛が少なく、より安定した生活を人類に提供した。豊かな食事と長寿、将来への夢と希望も提供した。しかしそれと引き換えに、人類は新たなそして深刻な問題をかかえることにもなった。

18世紀・19世紀・20世紀の世界では、高度な工業と技術をもつものが産業や軍事での優位性を確保した。こういった優位性確保のために、各国とも自国の工業や技術の育成・高度化にしのぎを削ってきた。国と国との競争に勝ち抜くために、競争の最前線で活躍する若者を養成する。これが各国における大学の工学教育に、期待されてきたものであった。各自それぞれの持ち場で、若者たちが役割をまちがいなく果たすことができるように、特定の分野ごとに工学教育がおこなわれてきた。土木・建築・機械・電気電子・情報・応用化学・化学工学などの、伝統的な学科が果たしてきた役割がこれである。前線における持ち場・持ち場での活動を総括的にまとめあげ、大局的な視野で国家間競争の戦略を練るのは、工学分野の技術者ではなく法律・経済の専門家であった。

第2次大戦後の東西冷戦時代に自己増殖的に巨大化した科学・技術と、それにともなって極度に国際分業化された生産体制が、21世紀の現在にいたって、国境を超越した新しい経済秩序をつくろうとしている。産業界・経済界が、ボーダーレス時代に突入したと言っていいであろう。多くの国に拡散してしまった核ミサイルの発射ボタンを、どういう状況で誰が押すことになるのか、といった人類の存亡にかかわる政治問題。大規模工業生産活動の歯止めのない無国籍化といった経済問題。地球温暖化にともなう世界規模の異常気象・大規模災害・農漁業生産異変などの環境問題。こういった人類にとって深刻な大問題が、実効ある対応策のないままに、加速度的に顕在化してきている。

地球規模に広がりつつある政治・経済・環境問題の根源は、突きつめて表現すれば、細分化された工学分野のより深奥かつ広範な進展にほかならない。個々の善が全体として悪になりうる、といった状況の出現である。これらの問題は、個別的な範疇をこえた包括的な対応を必要としているが、巨大化した工学分野の先端動向を包括的に把握することは、法律・経済の専門家はもとより、従来型の工学教育をうけた技術者にとってさえも困難になりつつある。広範な工学のすべてを包括的・俯瞰的に見わたせる素養をもち、なおかつ国際協働の舞台においてイニシアティブをとりうる資質をそなえた人材の養成が、真に必要とされるゆえんである。

科学・技術の巨大化が人類の意図に反してもたらした地球規模の政治・経済・環境面での深刻な問題は、科学・技術の実態と今後の趨勢に関する的確な理解に基礎をおいた、文明(物質)と文化(精神)の両面にまたがる包括的な対応策を必要としている。このような対応策を提案・説得・実行できるような人材の育成がいかに困難であるかは、我々が過去の経験をとおして痛感するところであるが、開発システム工学科・国際開発工学専攻として次のような考え方のもとに、新しい教育体制をとりたいと希望している。

世界規模での時代の変化に対応するためのひとつの試みとして、開発システム工学科・国際開発工学専攻が考えている教育体系は以下のようなものである。伝統的な主要分野のすべてを俯瞰的にみることができるよう工学基幹科目を重視し、同時に国際協働の場での行動力・指導力を養成しようというのが、その眼目である。カリキュラムの組みかえにあたって、工学の基本的要件を以下のように定義することとした。

いかなる工学分野においても、共通して使われているツールとは何か。それは、近似である。複雑な実現象を近似化して、精緻で抽象的な理論体系を構築する。精緻な理論体系をさらに近似化して、実際の「ものづくり」に利用する。このプロセスを、経済性の追求という枠組みのなかで実施する。これが工学である、と我々はとらえたい。実現象の高度な近似である抽象的理論体系と、それをさらに近似して実用にもちいる設計・製作・維持・管理のノウハウ。こういった工学特有の近似手法は、モデル化と呼ばれる手法と同義であるが、実学である工学分野すべてに共通の手法である。自然・人文・社会科学の知見をもとに、近似の工夫をもって経済性を追及する。これが工学の本質であると、我々は考えたい。近似(妥協)と経済性(役に立つ)のふたつが、時代や世相を超越した工学のキーワードであると、我々は認識している。

実現象の微小な変化を近似的に記述するための基礎方程式を、どのようにして組み立てるのか。組み立てた基礎方程式を解くために、初期条件・境界条件のかたちで実現象をどのようにモデル化するのか。そして初期条件・境界条件のもとで、基礎方程式を厳密に・近似的に・数値的に解くには、どのようなやり方があるのか。工学がカバーする範囲・対象はきわめて広範囲にわたっているが、それは実現象の例が広範囲にわたっているだけで、こういった古典的な近似手法そのものは工学全般にわたって共通である。したがって、例題の選び方などで工夫をこらすことによって、工学全体を俯瞰的に網羅するような教育をすることが可能ではないかと、我々は考えている。こういったカテゴリーの科目を、ここでは暫定的に、工学基幹科目と呼ぶことにしたい。

開発システム工学科・国際開発工学専攻は、その教育体系を組みかえるに当たって、工学基幹科目の教育に(科目数にして70%程度の)重点を置きたい。これが我々の基本姿勢であるが、実学としての工学を教育する以上、工学基幹科目を教えるだけでは不十分である。工学基幹科目はその性格上、抽象的・概念的にならざるを得ないため、具体的・体感的な側面に欠けるからである。工学の各分野における現場の雰囲気・熱意・自信・誇りといったものを身につけるためには、具体的な工学に対する帰属意識を必要とする。このため、工学基幹科目を重視するが、同時に伝統的工学分野も分野別重点科目として限定的(科目数にして15%程度)に教育することにしたい。

分野別重点科目とは我々の暫定的な呼称であるが、伝統的工学分野のなかから重点科目として我々が選ぶものである。どのような科目を選ぶかが問題であるが、限定的な時間しかないのであるから、各分野にとっての重要科目のなかから、適切な基準にしたがって選択せざるをえない。この先の読めない21世紀において、学生を特定の伝統的工学分野のみに特化させることに、我々は危惧を感じる。20~30年後には、その分野が衰退しているかもしれないからである。この危惧を軽減し、場合によっては新分野を切り開く能力を期待するためには、工学基幹科目をしっかりと身につけた人材の養成が必要であると、我々は考えている。

学科創設以来10年間にわたって、化学工学・機械工学・情報工学+電気電子工学・土木工学(アイウエオ順)の4コースに学生を分け、4コースの学生を関連学科・専攻の教育体系に組み込むかたちで、開発システム工学科・国際開発工学専攻は教育を実施してきた。講義の分担や卒論・修論の指導など日常的な教育・研究業務にかかわるあらゆる面で、関連学科・専攻から多大の支援をうけてきた。こういった支援がなければ、我々の教育責務を果たすことは到底できなかったであろう。関連学科・専攻に対して深甚の謝意を表するところである。

所属教職員による10年間にわたる新学科・新専攻育成の経験にもとづいて、また、関連学科・専攻とともに歩んだ過去10年間の実績をふまえたうえで、4コースの一本化による新しい教育体制を、開発システム工学科・国際開発工学専攻はつくりたい。4つの分野における専門家の集合体をもって、開発システム工学・国際開発工学の専門家であるとする過去10年の考え方をあらため、新規性ある実験的な試みとして4コースの一本化による新しい教育体制をつくりたい。分野別重点科目の選定にあたっても、関連学科・専攻との連携を失わないかたちで、4コースを一本化するという方向性を保持したい。これが我々の希望である。

開発システム工学科・国際開発工学専攻と関連学科・専攻とは、教育・研究業務だけでなく人事面においても、今後も変わることなく長期的な連携関係を保持することが望ましいと我々は考えている。したがって将来的にも関連学科・専攻との間で教員の移動が予想されるから、従来の4コースを一本化するようなかたちで分野別重点科目を選定するにあたっては、開発システム工学科・国際開発工学専攻に所属する教員それぞれの専門分野に近い科目を選びたい。関連学科・専攻における重要科目のなかから、きわめて限定的な数の科目を選ぶことになるが、その時その時の所属教員の専門分野によって、分野別重点科目が時代とともに変化し、結果的に時代の流れ・学問の趨勢に追随するかたちになることが期待される。

工学における伝統的な主要分野のすべてを、俯瞰的にみることができるよう工夫した工学基幹科目を第一義的に考え、工学基幹科目の教育に(科目数にして70%程度の)重点をおく。工学の伝統的個別分野における現場の雰囲気・熱意・自信・誇りといったものを身につけるために、伝統的工学分野も分野別重点科目として限定的(科目数にして15%程度)に教育する。このような純然たる工学教育に加えて、開発システム工学科・国際開発工学専攻は、国際協働の場での行動力・指導力を養成することに、教育上の力点をおきたい。過去10年にわたってあれこれ工夫を凝らしながら、国際常識・対話力・行動力・説得力・指導力等の養成に悪戦苦闘してきた分野である。

文科系の学問分野に属するとされる法学・経済学・社会学といった科目。異文化理解や異文化交流を取り扱う国際系の科目。こういった科目を学部における専門科目として、限定的にではあるが、カリキュラムに取り入れようと考えている。開発システム工学科・国際開発工学専攻では、従来からもこのような科目を設定してきたが、新カリキュラムでは比重を(科目数にして)15%程度にしたい。人文・社会・国際系の科目を、伝統的工学分野である分野別重点科目と同等の比重にし、包括的な視野の涵養・養成に力をそそぎたい。

国際社会のなかでわが国がおかれている客観的な状況は、物質面ではともかく精神面においては、日本人が一般に想定しているよりもはるかに孤立的である。昇り調子のときはエコノミック・アニマルと蔑まれ、意地悪い目で見てこられた日本。下り坂のときは、それ見たことか、と冷たく見離されている日本。いつの時も、少ない友人しか持たない日本。経済力をもってしか、友情を購うことができないかのようにさえ見える日本。こういった状況は、改善されるべきである。改善の第一歩は友人づくりであろうから、そのための予備教育として言語習得と在外生活体験から始めたいと、我々は考えている。

大学に入るまでの教育を主として日本語で受けてきた学生が、開発システム工学科・国際開発工学専攻に入学して修得すべき言語は英語である、と我々は考えている。また学生定員の50%を占める留学生が修得すべき言語は、言うまでもないことながら日本語である。前者のカテゴリーに属する学生の学部定員が学年あたり20名であり、後者の留学生が同数の20名である。国際的な場で生涯の友人をつくりあげ、国際的な場で行動力・指導力を遺憾なく発揮できるレベルの英語力。これが前者20名に期待される英語力である。このレベルの英語力を毎年20名の学部学生に確実に習得させるために、開発システム工学科では(できれば1年間の)長期にわたる英語圏における学外実習を課したいと考え、具体的方策を検討中である。

長期の学外実習を実施するための協力を、英語圏で生産活動を展開している(日系)企業の生産拠点に依頼したいと、我々は考えている。企業側の意見によれば、生産ラインにおけるよりは、計測・開発・改善部門での実習が効果的であろうとのことである。計測・開発・改善部門の仕事であれば、英語が不自由でも何とかこなせるようだとの受け入れ側企業の意見である。こういった仕事に就くためには、高度かつ精緻な計測に関する知識と体験をもっているべきであろうから、開発システム工学科での学生実験では、最新の計測技術の理解と体験に重点を置きたい。(開発システム工学科は独自の学生実験用スペースを持っていないので、南6号館4階をすべて学生実験用教室として使用したい。)また、受け入れ企業の現地職員の家庭にホームステイさせることにより、日常的に英語を使わざるをえない環境に学生を置きたいと考えている。

開発システム工学科・国際開発工学専攻では、入学前に日本語で教育を受けてきた学生に対して、上述の長期在外学外実習を考えている。学部段階では1年間の英語圏での学外実習、修士課程段階では相当期間にわたるアジア圏での学外実習を課したい。このため卒業・修了に要する年数が、4年・2年を越えることも予想される。長期にわたる学外実習の実習期間を、学務歴に合致するように選定することが難しい場合も考えられる。こういった事態を可能な限り回避するために、開発システム工学科・国際開発工学専攻では、春・秋の休み期間を利用した集中講義方式の授業ならびに遠隔地への通信教育方式を積極的にとりいれたい。集中講義方式は学生にとっては短期決戦型であるから、切迫度がたかく教育効果があがると期待される。

大学では学問を勉強し、就職して社会に出てから実務を経験する。これが従来の大学生がたどる典型的な道筋であった。実務の何たるかを体験せず、イメージに頼った進路選択をしていたと言えよう。しかし学問と実務をともに大学教育のなかで経験させ、学問のイロハばかりでなく、現実の世の中を実地に見聞・体感したうえで進路を選択させる方法を、我々は試みてみたい。学生にとっては、自分の適性を確認したうえで進路を選択できるし、企業にとっては、学部時代に英語圏で1年・大学院時代にアジア圏で数ヶ月の生活体験を経験した、海外経験が豊富で人間的成熟度が高い人材を採用できるメリットがある。

学部1年生から開発システム工学科に入学してきた留学生が、いかに高度な日本語をつかうことができるようになるか。これついての実に驚嘆すべき好例を、我々開発システム工学科所属の教員は数多く見ている。こういう人材は日本企業にとって大変魅力的で、就職後の勤務状況も好評である例が多い。しかしながら純然たる私費留学生として来日し、アルバイトだけで学費と生活費を得ている留学生のなかには、足元を見られて極度に劣悪な労働条件を受け入れざるをえない状況下にいる学生もいると推定される。結果として学業に打ち込むことが困難になりかねないので、開発システム工学科・国際開発工学専攻としては「あしながおじさん協会」のような後援組織の創設をも検討中である。

毎年4月に20名の留学生が開発システム工学科に入学してくるが、特定の出身国・出身地にかたよることなく、できる限り広い地域から資質のたかい留学生を入学させたい。これが我々の希望である。こういった希望をより確実に実現するために、我々は留学生の選抜方法に新たな工夫をとりいれたい。たとえば特定のいくつかの高等学校から、毎年一定数の学生を選抜する方法なども考えられる。現地における筆記試験・面接試験を早い段階で実施するなど、予約入学制に近い方法も考えられよう。タイ・オフィスやマニラ・オフィスなどの東工大海外拠点を通した遠隔予備教育なども、工夫の余地があろう。いずれにせよ、来るのを待つ体制から行って獲得してくる体制に変えてゆきたい。

現段階における開発システム工学科・国際開発工学専攻の将来構想は、以上のようなものである。ここでは、とくに開発システム工学科の新カリキュラムについて、我々が模索している構想を述べたが、大学院についても具体案を固めてゆきたい。いずれも今後、関係各位との調整によって実行可能な形態に改良することを前提としている。ここに述べたカリキュラム案は、基本的に試行案である。本学の教育体制は、伝統と実績に裏打ちされたかたちで社会の信頼を勝ち得てきた。したがって、軽々にそれを変更することは許されない。しかしそれと同時に、急速に多様化する社会の要請にも、対応してゆかなければならない。国際的・民族的、先端的・基礎的、総合的・先鋭的など二律背反的な時代の要請を、どのような調和をもって満たしてゆくのか。この問いに答えるには、小規模な試行・教育実験を実施するのが妥当であろう。我々はその役割を果たしたいと考えている。

開発システム工学科・国際開発工学専攻
教員 一同
平成17年6月27日