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「理・工学はペンよりも強し」 ―国際人としての理・工学者像―

 

神田学(国際開発工学専攻 准教授)

1,理・工学者はすでに国際人である

国際人(インターナショナルな人)。この言葉が想起させる人物像は? 英語堪能な帰国子女、国際的に活躍する芸術家・スポーツ選手、世界を飛び回る商社マン、ノーベル賞候補の先生、国際ボランティア、冒険家、などだろうか。いずれにしろ「理・工学」の陰は薄い。
国際的とういう形容詞に与えられる属性は、芸術であれ、行動であれ、思想であれ、広く世界に受け入れられるための「普遍性」を備えているということであろう。
実は、「理・工学」というのは、時空間的な普遍性という点において、きわめて国際的な概念なのである。英語は国際舞台で非常に重視されるが、言語は内容を伝えるための手段(ツール)であり、本質的に重要であるとは到底思えない。本質的に大切なのは伝えるべき内容であり、そこに世界を納得させ・感動させる普遍性があるかどうか、が重要なのである。言語には、母国語でなければ絶対に伝えらない相互理解の壁がある。理・工学には、「法則」および「技術」という、単純で、言語のような曖昧さを許さない、すばらしい共通概念がある。F=maと書きさえすれば、世界の理・工学者は、たちどころにその意味するところと、それによって支配される広範な事象とを理解するであろう。理・工学を真に修めたものは、それだけで、国際人なのである。

2,還元主義の限界

にも関わらず、国際舞台で何故かくも理・工学者の存在感は薄いのか? 「理・工学者は、マニアックで自己充足的だ」、とか、「真理の探究や物作りに夢中で社会や世界の動きに無関心だ」、など、理・工学者の資質に理由を求める世の批判は安易であり無益である。一方、「文系人間が社会を牛耳り、理・工学者は冷や飯を食わされている」という類の被害妄想も生産的ではない。
本来、教養とは、偏った知識ではなく、全学問的にバランスされたものでなくてはならない。近代は、学問分野を細分化し、知識層を特定の専門分野に分業化することによって社会全体としての生産効率を著しく向上させ、一応の成功をおさめてきた。このような姿勢を「還元主義」という。大胆に分類すれば、技術革新による生産基盤をいわゆる理工系人間が、人間相互の関係性が生み出す社会基盤をいわゆる文化系人間が、分業によって担ってきたと言えるであろう。製造業には理工系人間が、マスメディアには文化系人間がそれぞれ支配的であるという事実は、還元主義の当然の帰結なのである。
ところが、世界は今、この還元主義的なアプローチの限界に直面している。地球環境問題はその典型的な事例であろう。地球環境のような複雑系システムにおいては、問題を細分化して足しあわせても決してその答えの本質を得ることは出来ない。要素同士が複雑な相互作用をしているため、個々の要素そのものの性質を100%理解しても、要素間の複雑な連関のあり方を理解したことにはならないのである。また、地球環境はそのような科学的側面に留まらず、それぞれの国益といった答えのない社会政治的要因が複雑に絡み合っている。今ほど、理工系・文化系の枠を超えた全教養的な人材が求められている時代は無いのである。

2,「理・工学はペンよりも強し」

「ペンは剣よりも強し」とは、武力に対する言論の優位を記した言葉である。ところが、言論の中核を為す論理(=ロジック)というものには一つの正解があるわけでなく、ある国にとって完全な白は、別の国では完全な黒であったりする。論理構築の際の拠り所となる宗教なり文化なり背景がそれぞれ異なり、共通基盤を欠くためである。現代の混沌とした世界情勢の中で、理・工学は、相互理解の拠り所となる普遍的な共通基盤となり得る。科学的データや工学技術は、曖昧さを赦さないという点で、発信者の都合で論理構築され修辞された言論よりも強力なのである。理・工学者は、今まで担ってきた単なる物作りという役割を超えて、社会の方向性を決める重要な意志決定の国際舞台で活躍することが求められ始めている。
文化系出身の人にとって、理工系の知識を後から身につけていくことは非常に困難であろう。逆に、理・工系出身者にとって、そのような社会の表舞台で、英語を始めとする文化系的素養を身につけていくことは、それほど困難なことではなかろう。自信をもっていいのである。理工系の素養を身につけた新しいタイプの国際人を目指してほしい。

(2008年1月執筆)