Home »

 
 

留学生に助けられる最近―援助から共存へ

 

大即信明 (国際開発工学専攻 教授)

 

 私は、1988年に国家公務員(旧運輸省)から大学の教員になりました。1995年からは留学生の多い学科・専攻(国際開発工学科・国際開発工学専攻)の教授となり、現在に至っています。正直いって、20世紀の間は、留学生を1名育てるのに要した労力は、日本人学生の倍以上のものでした。当時は、私にとって、留学生とはコミュニケーションに手間取り、日本人との学力の格差に驚き、彼らの国の習慣の違いに戸惑った、という数年でした。

ところが、21世紀になり事情は大きく変わりました。留学生と日本人学生の学力差は縮まり、私は留学生に自信喪失を救われ、留学生が研究室の主力となり、卒業後母国で大出世してくれるなど、助けられることや楽しいことが多くなりました。以下に事例を挙げます。

・20世紀には、他学科の教授達に「私の講義では、君(大即)の学科の留学生の成績が悪いものだから授業がやりにくくて困る。」というようなことを度々いわれたものでした。しかしながら、最近ある授業について調べてみると、留学生と日本人学生に有意な差はないことが分かってきました。この原因は、むしろ日本人学生の学力ややる気が低下したことありそうなので、一概には喜べませんが、留学生のほうが学力がないということはなくなりそうです。

・ここ数年、いわゆる識者が「コンクリートジャングル」「コンクリートのダムはムダ」「これ以上公共事業は不要」などなど、運輸省および大学で建設材料(コンクリートと鋼)を研究してきた大即にとっては、自信喪失となるような話ばかりでした(今も続いていますが)。ところが、留学生の国では、まだまだ道路、鉄道、港湾の整備は必要ですし、コンクリートも鋼材も必要ということで、自分と自分の研究の存在意義もまだあるんだということでやや立ち直りました。

・昨年、大即の研究室のエースはミャンマーの留学生でした。彼が鋼の腐食の研究で頑張ってくれたおかげで、研究室の雰囲気もよく、また若干の研究資金も得ることができました。

・一昨年、大即の研究室で博士号を取得したM博士は、母国の国立P工大の助教授となりましたが、半年後には学科長となっていました。そして、驚くことに2007年10月には工学部長になりました。自分のことではなかなか喜ばしいことはないのですが、私としては鼻高々です。

私自体、20世紀には、留学生に対する意識として「援助してやる」といったやや傲慢なものがあったように思います。しかしながら、躍進するシンガポール、香港、続く中国、韓国、さらに頑張っているフィリピン、タイ、ベトナム、インドを訪問し、かつ、留学生の現状を実感すると、私の気持ちは、すでに「援助している」というものから「共存させていただいている」というものに移りつつあります。

恐らく10年後には、アジアと日本は新しい共存関係時代に入ると思いますが、その先駈けとして国際開発工学科・国際開発工学専攻があるといいなと思います。

(2008年2月執筆)