アジアの成熟国としての日本

 

花岡 伸也 (国際開発工学専攻 准教授)

 アジア諸国を訪れる機会が頻繁にある.そこに足を踏み入れ現地の人々と接するとき,米国や欧州では感じることのない,言葉ではうまく表せない「親近感」を感じることが度々ある.同じことを感じる人は多いのだろうか.アジア人初のノーベル経済学賞受賞者であるアマルティア・センは,これを「アジア人としてのアイデンティティ感覚」と呼んでいる(注1).日本を離れアジア人に囲まれた環境にしばらくいると,日本人を超えたアジア人としての感覚が沸いてくる.アジアの特徴の1つは多様性であり,日本および日本人は他のアジア諸国とは異なる多くの特性を持っているにも関わらず,アジア人としての帰属意識は強い.これは私が多くのアジア人と接してきた経験によるところも大きいだろう.ここで思うのは,アジアの開発途上国に対する日本人の意識である.

過去数十年,日本は先進国として,アジアの開発途上国にODA等によって様々な側面から「援助」をしてきた.経済的・技術的な援助が相手国の成長につながっている事例は数多くあり,その有効性や必要性はここで改めて論じるまでもない.しかし近頃,「援助」という表現に少しばかり違和感を感じるようになった.援助する側・される側という構図は本当に相手の理解につながっているのだろうか.先進国と途上国という関係から無意識に相手を見下していないだろうか.

しかしこうも考える.もしかしたら「先進国」という表現に問題があるかもしれない.Developing Countryは直訳でも開発途上国となるが,先進国の英語表記であるDeveloped Countryは,「成熟国」と訳した方が本来意味していることに感覚的に近いのではないだろうか.欧米諸国を含め,現在の先進国は歴史上の様々な巡り合わせから先進しているに過ぎないかもしれない.仮に50年後,現在の多くの開発途上国が経済的に「先進国」に至ったとき(アジアの途上国はその可能性が大きい!),それらの国々を含めて先進国と呼ぶのはもはや適さないのではないか.再びセンの言葉を借りると「誤った他者理解は誤った自己理解に結びついて」いる.先進国/途上国という言葉の枠にとらわれずにアジア諸国に接する心構えが今こそ求められていると強く感じる.

アジアの開発途上国に対し,交通社会資本が絶対的に不足している国・地域への援助は今後も間違いなく必要である.しかし,アジアでは交通の様式も多様だ.道路混雑,交通事故,環境問題など交通起因の課題への対応は一様では済ませられず,社会資本整備というハード部門への「援助」だけでは解決できない.また,交通計画・交通政策は他国の成功事例を輸入しただけでうまくいくとは限らない.その国・地域・都市,気候,生活,国民性などに合わせ,現地の智恵を生かした計画・政策が不可欠だ.早急に得られるものでは決してなく,長く根気のいるプロセスである.さらに現地の「常識の感覚」が異なることにも気づかなくてはならない.交通事故や時間遅延に対する感度も国によって大きく異なる.日本の常識を持ち込んでも良い案は浮かばない.適切な批評は当然必要だが,批判に終始せず,状況を大局的に捉え,どこまで相手の立場に立って考えられるかが求められる.交通計画に唯一の正解はないがより良い解は存在する.それを同じ目線で共に作り上げていく,そんな意識が必要だ.

アジアの良さは,相手を尊重し,多様な価値観を互いに受け入れているところにあると思う.日本は叡智と経験を有した「成熟国」として,アジアの国々と「共に」という感覚を共有できるはずだ.先進国の一員としてではなく,アジア人のアイデンティティ感覚を有する日本こそが,アジアの一員として途上国に協力していくことができると信じている.

注1:アマルティア・セン(大石りら訳):貧困の克服ーアジア発展の鍵は何か,集英社新書,2002.

(計画・交通研究会会報 2010年3月号 所収)