Reading Report – 環境政策を考える #5

書名:
環境政策を考える

筆者: 華山 謙

報告者: Ryoya Suehara (M1)

III-1 / 土地の私有権と環境の保護—土地利用規制

概要

生産手段の私的所有という原則をとる資本主義社会においては、ある種の土地利用の形態は、住民全体からみると望ましくないことがある。そこで、社会全体の利益と土地所有権の対立という深刻な問題が提起される。本章では、自然を保護することが社会的要求となっているとき、私有地の土地利用をどう規制するか、その手法を検討することからはじめて、社会的利益と土地所有権の対立の問題に接近する。また、この問題が公害輸出問題にかかわってくると、日本の国益と開発途上国の主権の対立という様相を帯びる。これについても考える(No.6)。

  1. 土地政策としての土地利用規制

日本は美しい国だと信じられてきた。そのことは、温和な自然の中に人間の営みが融け込み、そこに美しい調和をつくり上げていたからだ。その自然は、一度破壊されてしまえば一度破壊されてしまえば二度と元に戻らないか、戻るまでに非常に長い時間を要する。問題は、なぜ適切な土地利用計画が立てられず、あるいは立てられたとしても、それが十分な効果を発揮するに至らないのかという点にある。
土地に対する私有権は、所有する土地を自由に利用する権利を内包しているにも関わらず、土地利用計画は、使用の私的自由を制限する社会的制限を意味している。したがって、土地利用計画とは、社会がいかにして土地の使用に関する私的な自由を規制することができるかという点に尽きる。さらに、土地の私有権とは、収益する権利、処分する権利などを内包しているため、これらに対する課税や収用という私権の行使に対する社会の介入の形態が有機的に結びついたとき、はじめて土地政策は有効に作用することになる。土地利用規制は、単なる土地利用計画で終わるものではない。種々の手法があり、これらの手法をいかに組み合わせて自然の保護を図るかが問題である。

2. 自然保護の手法

我が国では、土地利用規制が私権の十分な侵害になるとして土地所有者が裁判に持ち込んだ例はあまりないが、これは自治体の土地利用規制に関する私権よりも強いことを意味するのではなく、実際には、土地所有者からの補償要求の訴訟を避けるため、土地利用者の要求に応じて利用制限を緩和してしまう場合が圧倒的に多いのである。たとえば、第二次世界大戦後に空襲によって破壊された東京の都市計画を目的として「特別都市計画法」がつくられたが、この地区内で建てられた建物の98%がこれを無視して建てられており、制限は既成事実を追認する形で大幅に緩和された。この点アメリカは、伝統的に自然保護の住民運動が根強く、同時に自由な経済活動を標榜する土地私権の観念もよく発達しているため、アメリカの経験を参考にしながら、土地利用規制の手法の問題を考える。

アメリカの土地利用規制は都市の内部から始まった。その目的は、私権制限とは反対に私有財産の保護であった。アメリカにおける自然保護運動は、19世紀末に国立公園運動として盛り上がり、これがイェロー・ストーン公園やヨセミテ公園を生み出した。自然保護の目的で私有地に対する土地利用規制が始まったのは、アメリカにおいても第二次世界大戦以降である。

アメリカにおいて、最も広く認められている土地利用制限は、河川に接して洪水の一部を湛水する遊水原に関するものである。これらの地域が開発制限を受け入れるのは、洪水の被害防止という公衆の安全の目的からである。遊水原の開発は、その地域の家屋の安全の問題だけではなく、開発によって雨水の流出形態が変わり、流域全体の洪水をおこしやすくする。また、裁判所も議会を支持していた。我が国の場合には、河川敷の中にたくさんの私有地がある。これらの土地は、私有地でありながら、河川法による強い利用制限を受け、私権は河川管理者の警察権に完全に服従している。堤防の改修によって遊水原の開発を促進するというのが、日本の河川行政の基本姿勢であった。

海岸や湖岸に沿う干潟は、自然保護の観点からすれば、遊水原と同等以上の価値を有するが、遊水原の場合と異なり、公衆の安全という論拠は薄くなる。しかし、アメリカには、州の天然資源局の許可なくして現状変更を禁止している州もある。この場合、遊水原と異なり、地主側に州や自治体に対する買取り請求権を認めている。土地私有権が保護われているわけである。我が国の場合は、湿地や干潟が民間業者に払い下げられ、埋め立てられ、開発されていった。

アメリカにおいて最も難しいのが、農地の保全である。農地は、都市の近郊に保全される場合、景観上からも防災上からも高価値であるが、住宅開発業者が目につけるのも、この土地である。カリフォルニア州のサンタ・クラブ郡は、この考えを最初に試みたところであった。住地分譲業者たちは、全体の面積からすれば小さな部分を占めたが、それらを分譲区画で埋め尽くし、農地と分譲住地は混在した。地方自治体は道路をつくり、子供が増え、農民はそのために税を取られ、固定資産税の評価が上がった。農民は都市計画委員会に集まり、農業地域指定の計画を作成した。その土地はグリーンベルト地域となった。計画はうまくいったように見えたが、数年後、その地域は開発業者が最も切望する地域となり、買値を上げ始めた。結果として、1970年までに数千エーカーが農業地域から脱落した。我が国の場合、戦後間もないころから、農地法や土地改良法による転用の制限があったが、これらは農地に投下された土地改良投資の回収を目的としており、転用決裁金さえ払えば、多くの場合転用が認められてきた。また、農業振興地域整備法によって、転用の規制は厳しくなったものの、開発の圧力の強い地域では、町村がはじめからこの法律の適用区域への編入を拒否おり、一旦農業振興地域に編入された地域も大きな開発計画が出てくると、すぐ振興地域指定の解除を受けたがり、事実多少の時間をかければ指定が解除される場合が多い。

用途指定または土地利用規制の手法による農地の保全は、日本でもアメリカでも上手くいっていない場合が多い。税の免除も、農地の保全政策として農民側から強く要求されるが、農民は時期がくれば、税を払ってでも開発を受け入れてしまう。メリーランド州では、都市の近傍の農地について、固定資産税の評価に特別の配慮を加え、時価ではなく、農地として利用したときの収益に基づいて評価するとした。しかし、その開発はバージニア州と同様に進んでおり、その効力は疑わしい。日本においても、固定資産税の評価は究極的には宅地なみに近づけることが決まっているが、そのプログラムは遅々として進まない。もし、オープンスペースを残したければ、税の減免などせずそこを買った方がかえって安くつく。

農地やその他のオープンスペースの保全について、見るべき政策は、自治体による農地の取得、それも単純な取得ではない各種の工夫にある。ひとつは、購入した土地を、農地のまま利用することを条件に、そのまま所有者に賃貸しすることである。もうひとつは、一代借地協定の締結である。連邦政府は、現在の所有者が生涯その土地の使用を続けるという条件で所有地を買い取るのである。借用の代償として、政府は購入価格を幾分引き下げる。また、もうひとつは、購入と売り戻しである。いくつかの州では超過収容法により、道路などの特別な目的のために、必要以上の土地を購入することができ、その土地を緩衝地帯とするような用途で貸し戻したり、売り戻したりする。

3. 土地利用規制の両面性

上記のように、探せば他にも手法はいくらでもあるといってよい。しかし問題点は、住民と自治体が本気になって自然を保護するつもりがあるか、という点だ。日本国憲法において、土地の所有権に優越するものとして、公共の福祉である。したがって、公共の福祉とは何かを明らかにする必要がある。松下圭一教授はこれを、国家に固有の統治権から説明するのではなく、幸福を追求する国民の権利から説明しなければならないと述べる。それゆえに、個人の公共への「責任」ではなく、個人による公共の「構成」が問われる。つまり、主体はあくまで市民であるのだ。自治体が本気になり自然保護を行えば、おそらくそれは可能であろう。しかし、反対に住民と自治体が開発に熱心な場合は、公共の利益の名の下に少数の環境保護派は圧倒される。この二面性は、人々の心の中の自然と大切にする気持ちと、物質的に豊かになりたいというものであり、「成長か環境か」という設問に回帰する。土地利用計画がこの二面性を克服するためには、計画が科学的根拠を持ち、その決定の過程が民主的であることが不可欠である。

感想

本節では、土地利用政策について考えた。ここでも、国の定める私権とその共同体の利益の対立があった。さらに、自然保護の分野では、自治体が開発に賛成し、結果として自然が失われる場合も考えられている。個人(または共同体)の利益追求が国(または地球規模)の損失を生んでいることになる。自然保護は、自治体が本気でその問題に取り組むかどうかに左右されると著者は述べている。これは、市民の声を無視することによってではなく、科学的根拠と民主的プロセスによって計画を決定することを意味している。これまでこの本を読み進めた私の眼には、環境政策と民主主義は矛盾したものように見えていた。しかし、地球規模の福祉の追求という意味において、この政策は矛盾しないのではないだろうか。