Reading Report – 環境政策を考える #4

書名:
環境政策を考える

筆者: 華山 謙

報告者: Ryoya Suehara (M1)

Chapter II-2 / 消費者主権と環境—自動車の場合

概要

1. 排ガス規制の背景

1961年のカリフォルニア州で、一つの法律が成立した。その法律は車に簡単な装置をとりつけ、気化したガソリンを未燃焼のまま外気中に放出されるのを防止するというものであり、これが、自動車の排ガスに関して自動車メーカーに要求した世界初の法律であった。しかし、1950年、ロサンゼルスに大気汚染規制管区が作られたころ、自動車メーカーは排ガスが大気を汚染しているという事実を認めようとはせず、さらに全米自動車工業会は相互特許協定を結び、排ガス規制技術を四大自動車メーカーの内部に限定して流通させようとした。これにより、排ガス規制の技術は事実上握りつぶされたのである。しかし、ラルフ・ネーダーによって自動車メーカーの怠慢と不正が激しく告発され、それが全米にテレビ放映されると、自動車メーカーに対する世論の批判は激しいものとなった。そして、連邦政府の排ガス規制の生ぬるさが批判されるようになった。

1970年のアメリカは我が国と同様に公害の年だった。この年の夏、アメリカ東部諸州は、未曽有の大気汚染に見舞われ、自動車産業に対する世論の批判と相まって、マスキー法が1970年大気汚染防止法の第二章として成立した。しかし、この法律には延期条項が含まれており、結果的に目標達成年は5年延期された。

日本では、アメリカにおいてマスキー法が成立した直後に、中央公害対策委員会の答申に基づき、環境庁が1972年に規制目標値を発表した。これは、マスキー法と全く同じものであった。アメリカと日本では、自然環境も社会環境も異なっているのに、同じ目標値を設定したのは、それによって直ちに環境目標を達成しようとして作られたものではなく、むしろ、目標を達成するための手段の一つとして、排ガス低減技術の改善のプログラムを示したものだったといえる。

奇妙なことに、環境庁がこの規制値を最初に告示した1972年当時、日本の自動車工業会はこの規制値に対しなんら批判がましいこと意見を述べなかった。それは、アメリカの基準に合格しなければ、15%の市場を失うからである。しかし、1974年にアメリカの連邦政府が、目標達成年の延期を認めたとたん、日本の自動車工業会はアメリカの自動車工業会をまねて、政府に働きかけ、規制を緩和させようと政治的圧力を加え始めたのである。結果は、世論の強い要求があったにも関わらず、五一年規制はそのままの形では実施されず、暫定規制が行われることになり、当初の目標の実現は1978年まで延期されることとなった。また、これは、基本的には窒素酸化物規制ができるか否かという技術上の問題でもあった。

2. 技術的可能性

問題は、他の条件を大きく変えることなしに自動車の排ガス中の窒素酸化物を規制目標値まで減らすことができるか否かというものでもあった。各自動車メーカーはいずれも不可能だと主張し、中央公害対策審議会自動車専門委員会(以下、八田委員会)でも、規制延期やむなしとの判断が大勢を占めているとの情報が流されていた。しかし、日本の自動車メーカー各社が優遇税制いかんでは、規制合格車を発売することが可能である、あるいはそのような準備があると主張した。メーカーがそのような技術をあらかじめ持っていて隠したのか、あるいは規制を遅らせるためにリードタイム(採用する技術が決まりスタイルが決まってから大量生産ができるまでの時間)を提示したのかは定かではないが、いずれにしても、「厳しい規制の下においてのみ、技術水準の向上がありうる」という、七大都市調査団の主張は正しかったのである。

八田委員会およびその結論を鵜呑みにした中公審の誤りは、このような自動車メーカー側の御都合主義の主張を無批判に受け入れた点にある。自動車メーカーに限らず、私的企業が技術情報を公開したがらないのは、資本主義社会の法則であり、これを打破するには、あらゆる専門家の意見をきき、環境庁は、たとえば、自分たちの得た情報を最大限公開し、批判的な専門家とメーカーを対決させるなど、最終判断に必要な手段を尽くすべきだった。公衆の安全と健康にかかわる情報が一部の人々に独占的に所有される社会では、民主主義は次第に逼塞せざるをえなくなる。

3. 規制と経済的影響

1974年当時、技術的問題の次に提起されたのは、排ガス規制による社会的影響の重大性という理論であった。自動車産業こそ日本経済発展の担い手であって、これに規制を加えることは日本経済をダメにするという、自動車産業擁護論である。しかし、公害の被害は比較的少数の弱者(たとえば、老人や子供)の上におこる現象である。根本的にはこれと社会一般の所得上昇とを比較して、被害者を黙らせようとするが如き論理の倫理性が問われなければならない。所得上昇のためなら、どのような産業でもよいという自動車産業擁護論の論理は、基本的倫理性を欠いているがゆえに、容易に軍事産業擁護論にかわる性質のものだということができよう。

4. 自動車交通量削減の問題

七大都市調査団は、自動車の排ガス規制の実現に加えて、自動車交通量の削減が必要であるとの提案を行ったが、それが窒素酸化物の削減に大きく貢献しないことが明らかになった。交通量削減のためには、交通警察の増強などの費用が必要であり、現行の制度の下では、これらの費用は自動車の運転者だけに負担させるという形はとりにくく、汚染者負担原則は貫かれないことになる。この観点からも、排ガス規制がまず行われるべきである。

また、今一つの問題は、道路建設に関する公共負担の問題である。日本の場合も欧米諸国の場合も、自動車量の増大は、明らかに道路投資の増大によって支えられてきた。このように、受益者負担原則が無視される傾向にある。もし、道路整備事業について、自動車の利用者が正当な負担を負っていたなら、道路整備事業に投じられた公共事業費の一部は、大量交通機関に充当することができたかもしれない。

感想

環境のための政策は、現状を反映しつつ、実現可能で、かつ有効なものでなければならない。1970年以降の日本とアメリカに見られた例は、この難しさを表している。また、前回は、消費者が汚染者である場合を論じ、対処が難しいとされていた。しかし、道路整備などの公共事業に関しても同様に汚染者負担原則を適用するのは難しい。したがって、ここでも行政の重要性が大きくなる。公害の被害が比較的少数の弱者の上におこる現象であるならば、全体をひとまとめで考えるのは良い判断とはいえない。それでは、資本主義社会における環境政策とは何を意味するのか?規制とは資本主義を圧迫(または統制)するのか?考えながら次節以降を読みたい。