Reading Report – 環境政策を考える #3

書名:
環境政策を考える

筆者: 華山 謙

報告者: Ryoya Suehara (M1)

Chapter II-1 / 消費者主権と環境—ごみの場合

概要

経済学には、消費者主権という概念がある。消費者は、自らの効用を最大化するように行動するはずであり、すべての生産活動は、そのような消費者の選択すなわち消費者主権を前提として、企業が利潤最大の行動をとった結果に他ならないというものである。しかし、消費者主権は、分権的な市場を媒介として成立する概念である。よって、工場公害を消費者の選択の結果であるとすることは、企業の責任をうやむやにすることであり、正しくないことは明白である。しかしながら、自動車や洗剤あるいはごみといった、消費活動に伴って発生する公害については、消費者の責任をまったく否定することも難しいように思われる。この章では、消費活動に伴う公害に関して、いわゆる消費者主権がどの程度機能しうるか、ごみ(No.3)と自動車の場合(No.4)を考える。

1. 所得の上昇と消費の増大

都市の家庭ごみ排出量とその都市が属する国の一人当たり国内総生産には相関関係がある。一人当たりの家庭ごみの排出量は、所得の伸びに比例して増加するということである。しかし、このことを個々の家庭に当てはめて考えると、それが妥当であるといえない問題点がある。

第一に、都市の清掃当局が集めているごみは、家庭から出たごみだけではない点である。東京都では、一日100グラム以下のごみは営業活動から出るごみであっても、家庭ごみとみなし無料で回収されている。零細な食堂や小売店の多くは、営業活動から出るごみも家庭ごみと一緒に排出し、これが家庭ごみに集計されているのである。

第二に、家庭ごみを再資源化するプロセスが都市の中に組み込まれているか否か、またその活動が活発であるか否かが家庭ごみの排出量に影響するという点である。

第三は、技術的なものである。東京のごみとニューヨークのごみをくらべると、東京のごみのほうが、明らかに含水比が高い。含水比の違うものを重さで比べることには問題がある。東京の家庭ごみは、台所ごみが多く、これが東京のごみの含有率を高くしており、これが東京のごみの特徴である。

第四に、ニューヨークでは、かなり多くの家庭にディスポーザーが普及し、台所ごみの多くがディスポーザーを通って下水に流されていることである。おそらくニューヨークの全家庭の2割ディスポーザーをつけているが、東京では普及していない。

したがって、一人一日あたりのごみの排出量といっても、都市によってかなり異なっており、それを無視して、そこから定量的な結論を導こうとすることについて、慎重になるべきである。ごみの量を正確に比べることは意外に困難であり、むしろごみの質の中により正確な両者の違いを見ることができるように思われる。

2. 産業構造とごみの性状

東京のごみとアメリカのごみを比較すると、東京のごみは、台所ごみプラスチック類、皮・ゴム類が多く、アメリカのごみは、紙類、ガラス類、金属類が多い。これは、日本の消費者がアメリカの消費者にくらべて、加工されていない食品を多く購入しているためである。また、このような差異は両国の産業構造の差が表れていると考えられる。しかし、この差異を両国民の嗜好あるいは習慣の差と考える学者もいるかもしれない。だが、包装容器の問題になると、嗜好によってこれを説明するのは難しいように思われる。プラスチックごみのほとんどは容器または包装に起因することは明らかである。消費者が求めているものは、中味であって容器ではない。したがって、容器に起因するごみの発生を消費者の選択の結果であると主張することは、無理である。例えば、東京では、古新聞紙に包まれた卵を買うことがもはや出来ない。消費者はその意思を市場で実現することはできない。日本でプラスチックの容器が普及したのは、それまでの包装材料に比べて軽かったり、丈夫だったり、廉価であったり、したことだろう。プラスチックの採用はしたがって、流通や保管の経費を削減し、消費者が、そうでなければ負担しなければならなかった費用を免れるという恩恵を受けているのかもしれない。しかし、食品加工業者や小売店等が一旦プラスチックの採用を決めてしまえば、消費者にとって市場における選択の機会はないといってよい。これは、消費者は市場に影響を与えることができないことを表しているといえる。ごみ問題に関する限り、消費者は市場において主権者とはいえないのである。しかし、消費者は、小売・卸売業者と生産者にびんやかんの回収を義務付ける法律をつくることはできる。これは、市場で発揮できなかった主権を議会で発揮したことになる。

3. ごみ処理の費用

ごみ処理の労働生産性は、都市が採用しているコンパクター・トラックの容量に関係がある。東京の場合、コンパクター・トラックの容量はふつう1トンであり、運転手1人と2人の作業員がつく。トラックは1日4サイクルの作業を行うから、大雑把にいえば、1人1日1.3トンである。一方ニューヨークでは、トラックの容量は6トンであり、1人の運転手と2人の作業員が1日2サイクルの作業を行う。したがって、労働生産性は1人あたり4トンである。しかし、東京では、道路が狭いため6トンのトラックを走らせることは容易ではない。両都市とも、一般家庭が料金の形で直接ごみ処理コストを負担しているわけではないが、ごみの量がもっと少なければ、その分の予算を他の福祉予算に充当することができたのである。産業の都合によって、消費者は大きな財源を失い、福祉の機会を失っていることになる。

4. 再資源化の動き

上でみたとおり、資源の収集はきわめて労働集約的であり、かつ労働生産性を上昇させることが困難な作業である。したがって、処女資源の価格が一定であれば、賃金の上昇は必ず資源回収業者を逼塞させる。一旦、消費されたものを混合状態の中から工学的に取り出して再資源化をはかるよりも、たとえば産業に対して容器類の回収を義務付けて、ごみの発生量を抑制することの方が社会的費用は小さくなるに違いない。政府は紙容器に対しては税をかけ、繰り返し使用のびん容器に対しては補助金を出しても、この関係を逆転させるべきである。さらに、小売店を容器回収に協力させる手段が問題である。消費者については、経済的インセンティブがそれほど強くなくても、環境問題に関する意識を喚起することで、容器の回収率を高めることができる。しかし、小売店に対しては、経済的インセンティブが必要であり、同時に容器回収をした場合の罰則と、営業ごみの有料化、容器の規格化が必要である。

5. 市場での主権より議会での主権を

都市のごみは、各種の公害の中で、消費者が最も責任を負うべき種類のものであるといわれて来たが、その内容は、消費者が選択したというよりは、産業側がそういう構造をつくりあげたという側面がかなり強い。消費者が賢くならなければ、公害はなくならないといわれることがある。これを否定することはできないが、一方で、消費者は現存する市場の中でしか選択権を発揮することができず、生産者がその市場の性質を決定する力をもっていることも、また明らかな事実である。したがって、社会が生産者の行動に一定の規制を加えるならば、それによって効果的に都市公害のある側面を軽減することは可能である。また、消費者にもびんやかんなどの返還をしやすいようにする経済的インセンティブも必要であるだろう。これらの規制には、大部分の消費者は、多少の不便が起ころうとも賛成するのではないだろうか。

感想

環境問題を論じるとき、批判の対象になるのは汚染者であることが多い。しかし、消費者が汚染者である場合には、対処が難しい。本のタイトルの通り「環境政策」とは、社会をデザインする方法であり、責任の所在を「社会のみんなが悪い」といった懺悔論に埋没させるのではなく、その原因を分析し、改善することであると感じた。次節は「自動車の場合」について論じている。日本の代表的産業であるが、自動車についてはどのような分析がなされているのか、非常に興味深い。