Reading Report – 環境政策を考える #1

書名:
環境政策を考える

筆者: 華山 謙

報告者: Ryoya Suehara (M1)

Chapter I-1 / 成長と環境悪化の日本的特徴—資源の奪取と環境破壊

概要

経済成長は環境悪化の原因であると言われるが、この二つの現象の間に存在するものはなんであろうか。そこには、問題の日本的な特徴が表れているかもしれない。本章では、日本における経済成長と環境悪化の関係を単なるトレードオフとらえるのではなく、その中間項に存在するものは何かを考え、二者の関係をより明確にとらえる。

日本は、世界の資源を多く消費している国であり、その大部分を輸入に頼っている。同時に、この資源の大量消費は深刻な環境被害をもたらした。例えば、石油は硫黄を、鉄の精錬は硫黄、窒素化合物やフェノール類を必ず含有している。したがって、資源の大量消費による環境悪化は不可避であるように思われるが、まず、日本の歴史的事実を明らかにし、事実に即して考える必要がある。

今日の日本は、資源に乏しい国として知られているが、戦前、とりわけ1850年から1900初頭には、銅と石炭は我が国における主要な輸出商品であった。第一次世界大戦を通じて世界の銅の生産量が飛躍的に増大する前には、日本は世界の銅の10%を算出していた。足尾、別子、日立といった日本を代表する銅山で次々に公害問題が発生したのは実にこの時期である。銅の精錬は、亜硫酸ガス、または硫酸ミストを発生させる。これらの物質が環境中に放出され、水中の生物を殺し、樹木を枯らし、地盤を弱め、弱くなった地盤のために洪水が頻繁に起こるようになった。足尾銅山において特徴的なことは、加害者である古河が、住民の度重なる抗議にもかかわらず、自らの責任を認めず、積極的な公害防止投資を行わなかったことである。また、国を終始、古河の肩を持ち、住民の正当な抗議に対して警察力による弾圧を加えた。これは、それぞれのケースの歴史的・地理的条件、特にその中で行動した個々の人間のパーソナリティに強く依拠するものだが、極端に高い成長を実現するような情勢とパーソナリティの中には、公害防止を行う余裕がないという、悲劇的な法則を示唆しているように思われる。

敗戦後の日本は、残された国土は狭く資源は乏しく、人口のみが多かった。この時期に、日本の経済復興を達成するための資源は、実は港湾であった。港湾こそが、資源を持たない日本が、重化学工業を定着化させる技術的条件であった。例えば、ヨーロッパの場合、製鉄業は、鉄鉱石または石炭の炭鉱の産地に近い内陸部に立地する場合が多かった。これと異なり、日本は臨海地域に工業地域を集中させた。結果的にタンカーの大型化が起こり、調達費が下がり、国際競争力を得た。これにより、さらなる工業規模の拡大が起こった。また、港湾の整備費用のほぼ全額が国費でまかなわれている。しかし、これはコンビナートから排出される排水、排ガスの量の増大を意味していた。実際に、地域住民の健康被害がほぼすべての臨界工業地域においてみられる。この場合の企業にとっての利用可能な資源とは、港湾であり、その周辺の海域は廃棄されるものとなった。私的企業にとって廃棄されるべきものが、のちにどんな状態になろうと知ったことではない。それが、コンビナートの周辺に拡がった環境破壊だと考えることはできないだろうか。

上記のように、日本の重化学工業が成長を遂げることができたのは、工業原料のほぼ100%を海外資源に依存しながら、その輸送コストを低減させることによって、世界各地からもっとも安い資源を輸入しえたことにあった。この輸送コスト低減をもたらしたのは、資源を輸送する船舶の大型化であり、それを可能にしたのは、公共資金による港湾の整備であった。この港湾の近代化は、大都市をさらに巨大なものにし、資本の大都市への集中化は同時に人口の集中をもたらした。なぜなら、大都市への資本の集中は、生産の拡大とそれに伴う労働力の需要増を生み、その結果、大都市における賃金は、農村における賃金を上回るようになったからである。この産業間の人口移動は地域間の人口移動、過疎過密問題となった。また、それらは国の政策によって後押しされたのである。

日本における環境破壊は、私的な企業が、個々の企業であれ集団としての企業であれ、利潤を追求する過程で、利用しうる資源を徹底的に利用し尽くし、その結果として、廃棄物を集積させることによって生起させられたものであるといえる。したがって、環境政策はまず、これらの私的企業の生産活動の形態に直接にかかわり、これを規制するものでなければならない。つまり、企業にネガティブな情報の公開を強制しなければならない。しかし、これは私的な企業活動の自由、私的な利益追求の自由、ひいては企業秘密の主張と対決せざるを得なくなる。資本主義国である日本においては、環境の保全と直接に対立する概念は、経済成長ではなく、むしろこの私的企業活動の自由、私的利潤追求の自由そして企業秘密なのである。環境の保全と経済成長とを対比させ、二者がトレードオフの関係を持つかのように言う主張は、私的企業の自由を成長にすりかえることによって、成長の名の下で私的企業の自由を擁護しようとしている場合が多い。上記にみた成長の最大の原因は、環境保護を無視したからではなく、設備の大型化にみるべきであろう。成長を公害の原因と考えらたり、その逆を主張するのは無理であるように思われる。そうであるなら、その成長と公害の間に存在するものを、私的企業による資源の奪取とそれを奨励している国家の役割とするなら、一連の環境政策を考えられるだろう。次章以降、環境政策の検討、その実現可能性について論じる。

感想

この本が出版されたのは、1978年3月20日、今から実に35年も前のことである。今日でも、経済成長と環境保全はトレードオフであると認識されていると言って良いだろう。その主張は間違いではないが、その二者の関係をより正確にとらえることで、日本における問題の根源を明らかにすることができる。この本の著者である華山氏は、問題の原因を国の政策にあるとしている。国の政策の重要性は論じるまでもないが、理想的には、国費の分配は文字どおり国民全体にもたらされるべきものである。たとえ少数であっても、国民が負の影響を受けうる政策は良い政策とは言えないだろう。しかし、企業活動の環境に対するインパクトを測ることは難しく、したがって適切な環境政策は難しいことも事実である。どのような環境政策が存在または提案されていたのか、またそれらは35年後の今とどのように異なっているのか、次回以降記していきたいと思う。