Reading Report – 環境政策を考える #7

Title: Reading Report #7

Author: Ryoya Suehara

Book Title: 環境政策を考える

Book Author: 華山 謙

Chapter IV-1:環境政策と民主主義—社会的費用論

Summary:

これまで、経済成長と環境破壊との間には、それを繋ぐ環として私的企業の利潤追求に起因する資源の浪費があり、消費者が市場で行使しうる権利としての消費者主権は、この私的企業活動を制限して環境破壊を止めるうえで無力であり、消費者の意思は、市場でよりもむしろ、議会で示されなければいけないことを知った。ここでは、環境問題に関する社会全体の政策形成について考える。

1. 社会的費用の概念

イギリスの経済学者ピグーよって、公害を外部不経済とする考え方を示した。この考え方を要約すると次の様になる。企業が利潤を極大化しようとすれば、限界生産性が逓減するという一般仮定の下では、企業にとっての私的な限界生産費は、生産物の市場価格に一致する。しかし、もしこの企業の生産が外部不経済を伴うようなものであれば、外部不経済は社会全体にとっては費用とみなされるから、社会的な限界生産費は、私的な限界生産費を超えているはずである。したがって、この社会にとって望ましい状態は、もし、社会の構成員のすべての選好が、この企業の市場価格に正確に反映されているとすれば、市場価格と社会的な限界生産費が一致する点である。この状態に対するピグーの処方箋は、外部不経済をもたらす企業にたいして、私的な限界費用が社会的な限界費用に一致するように、税を課すことである。しかし、この考え方に対して、次の疑問を提起することができる。第一に、公害を金銭的評価することが果たして可能か(可能性)という疑問である。第二に、それが可能だとして、ピグーの考える社会にとっての望ましい生産水準が実現しても、なおいくばくかの公害は残っているはずであり、そのとき、被害の大きさを社会の構成員相互間で加え合わせることに何の意味があるのか(効用の可加減性)という疑問である。

公害の経済的な評価には、様々な方法が考えられる。例えば、資産価値や人命の犠牲を評価するという「予想的被害の推定」、公害を避けるために対策案を実施し、そのうえで災害での損失と足し合わせるという「予想的回復費」、あるいは、災害が起きる前と後での地価の変化をもとに試算する「予想的機会費用」が考えられる。しかし、これらは想定上のものであって、従来から経済学者によって考えられてきた、社会の第三者が受ける直接的・物理的な被害実態とは異なるものになる。そこで、実態としての被害を貨幣価値で表現する方法に絞って考えてみよう。この中には、(1)被害を最小限度にくいとめるために支出された費用、(2)なんらかの費用の支出を伴って修復された被害、(3)現実には物理的な被害を受けながら、各経済主体によってなんら手を打たれず放置されたままになっているもの、または手を打ったのは一部だけで完全には修復されてないもの、(4)住民の受けた精神的圧迫、肉体的苦痛、失われた美観などの被害などがある。現実には、(1)、(2)のみを集計するのみであり、(4)などは、貨幣的に秤量できないと唱える学者もいる。従って、実際の被害よりも少なく見積もられることがある。

また、公害の経済的損失の評価を限定したとしても、評価に当たって遭遇する基本的な問題は残っている。それは、評価されるべき被害は公害によるものかどうか、という因果関係の立証をどのように行うのかという問題である。理論的には、汚染地域とそうでない地域を比較すればよいのだが、うりふたつの地域を探す事は難しい。また、比較対象地域も何らかの異なる汚染を受けている可能性もあり、問題は簡単ではない。結果的に、我々は多くの仮説を認めなければならず、それだけ結果は恣意的なものにならざるを得ない。

このようにして計算された被害には、どのような意味を認めたらよいだろうか。この問題は先に述べた第二の問題点、すなわち、被害の可加減性の問題とも関連している。著者の結論は、これらの被害を社会的費用、つまり企業も家計も公共部門も含んだ総計としての社会に関わる被害としてではなく、住民つまり家計部門が被っている被害だと考えるべきではないか、というものである。なぜなら、公共部門での被害は、もし公害がなければ他の公共福祉に充てられていた支出であるといえるし、民間部門での被害による支出分も、最終的には住民が負担するものだからである。従って、住民の、この考え方に基づく金額の賠償請求も理論的には可能である。しかし、著者が調査の過程で接した住民の意見は、住民が真に望むものは、地区から公害を完全になくすことである。公害発生源者に公害をやめさせること、この点において住民の意見は一致する。公害による被害の経済評価は、ピグーが考えた様な、それ自体が経済政策の対象となる実体ではなく、公害発生源者に対して公害防止投資を要求する上で、要求の正当性を強固にするための極めて実践的な概念だと考えたほうがよい。

一般的に、公害防止に必要な費用は、生産が外部性をもつことの結果必要になる費用だといってよい。もし企業が公害を完全になくすように義務づけられたとしたら、企業は利益の極大化をはかるために、公害防止を義務づけられていない状態での私的な限界生産費と、限界的な公害防止費用との和を、市場価格に一致させるはずである。このとき、企業にとっての公害による被害は、公害防止費用そのものである。またもし、企業が公害を完全に防止するように義務づけられるのではなく、一部の公害を金銭によって補償することが許されているとすれば、企業にとっての公害による被害は、公害防止の費用と補償費の和である。しかし、企業にとってこの種の費用を実測することになんの意味があるのか。著者は、企業の公害防止の為に投じた費用を被害額の集計に入れるべきではない、としている。その費用は、すべての同種企業に共通するものであり、その結果価格が上昇するとしても、その地域住民のみが負担を強制されるのもではなく、住民の被害額と同一に扱うことはできない。

2. 功利主義の問題

“最大多数の最大幸福”は、J・ベンサムによって提唱され、J・S・ミルらによって継承されて、主としてイギリスで発展した功利主義の基本原理である。これは、社会の構成員の感ずる幸福の総計が社会の幸福と呼ばれ、社会の幸福を増加させる傾向が、それを減少させる傾向よりも大きい場合には、そのような傾向をもたらす政策は、是認されなければならないというものである。この考え方は、ほぼピグーの厚生経済学に承けつがれているが、社会の構成員が個々に感じる快楽や苦痛が、他の構成員の感じる快楽や苦痛と量的に異なるだけで、質的に同じものであって、従って相互に加えたり減じたりできるという前提はあまりに強引すぎるものであるといえよう。この考え方は、修正され続け、イタリアの経済学者パレートの社会の最適に関する基準と実質的に同じものとなった。すなわち、彼は、社会の構成員の誰一人をも悪くする事無くしては、誰一人良くすることができない社会を最適とみなしたのである。彼は、すべての人が反対せず、かつ少なくとも一人が賛成するような政策は是認されるべきであると考えたのである。しかし、”仮定的補償”はその後も発展の中でずっと承認されてきた。すなわち、少数者の苦痛は、多数者の所得の上昇すなわち成長のために許されるべきだと多くの経済学者は考えたのである。しかし、”仮定的補償定理”を環境問題にあてはめることは、明らかに間違いであり、環境問題と功利主義の公準は両立しえないものである。

3. 投資の問題

「成長か環境か」という問題に対するいまひとつの視点は、現在の世代と将来の世代の間での資源配分の問題である。代表例として、イギリスの経済学者ベッカーマンの考え方を見てみよう。彼は、「経済成長の問題は、今日の消費と明日の消費との間での選択の問題である」と述べる。さらに、「いかなる社会においても経済が成長するのは投資によってである。したがって経済成長のために支払わなければならない真のコストは、投資に資源を投じるために放棄されなければならない消費だけである。今日の消費を犠牲にすることで得られる投資を、ただ一つの目的のために集中するような、ひどく特殊なやり方で全部使い果たしてしまうべきではあるまい。」と続ける。確かに、総生産物のうち今日消費するものを除いたすべてを、公害防止のために投資することは望ましいとは言えないだろう。しかし、彼は、経済成長が高度な消費水準を実現し、高度な消費水準は人間の幸福につながると無条件に信じている。また、富裕層の生活の絶対水準を下げることはできないので、所得の不公平をなくすためには、所得全体を増やす事が必要条件と考えている。しかし、この前提は正しいだろうか。一部の独占的に使用されている資源を共同で使用するという方法もありうるのではないか。

そしてなによりも問題であるのは、ベッカーマンが、環境破壊が多くの場合非可逆的であるということを理解していないことである。例えば、水俣病の患者は、チッソが水銀の垂れ流しをやめても、元の健康状態を取り戻すことはできない。この点に関して、ベッカーマンの論敵であるミシャンは次のように述べている。「我々は満足を与えるという上では、取るに足らぬものと言える様な品々に関しては、多すぎるほどの選択を持っている。ところが、生活の楽しみを破壊するような事柄に関してはすべて、選択の余地がない」環境破壊を防ぐことは、そのためにいかに巨大な公害防止投資を必要としようとも、そしてその結果、経済成長が止まるようなことがあっても、将来世代の選択の幅を縮めることではなく、その幅を保持することであり、将来世代の幸福を制限することではなく、それを補償することである。

4. 基本的人権と民主主義

功利主義の政治的原則となる社会は、イギリス中産階級の社会であり、そこでは個人は互いに独立で、資質や嗜好においてもまた資産においても大きな個人差がなく、自らの価値判断と行動とを個人の責任において行う、そういう個人の集合であった。それゆえに、意思決定によって多数決が主義の公準にかなうものであり、多数の賛成者がいることが、社会全体の効用の増大が、少数の反対者の効用の減少より大きいことの証明とみなされた。ところが、この前提は、産業の規模が極端に巨大化し、所得の分配にも大きな不公平の存在する現代においては、まったく妥当しない。投票による意思決定では、最も深刻な被害者が救済されずに終わる可能性がある。

水俣や四日市公害のもたらしたものは、人間の死であり、それは相当数の人々の所得の増加をもってしても、償われるものではない。日本国憲法では、その十三条で、「すべての国民は個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」とある。また、二十五条では、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」とある。健康な生活を営む権利は最も基本的な人権であり、いかなる代価があろうとも、それを強制的に譲り渡す必要は認められていないのである。

このように考えるならば、現代における民主主義の方法論が、功利主義の方法論であってよいはずがない。住民運動や住民参加の方法論がそれに変わるものであろう。しかし、都道府県あるいは市町村という議会の単位は、必ずしも公害の被害を受ける地域の範囲と一致しない。しかも、住民参加は民主主義の方法論としては、始まったばかりものである。したがって、住民参加の方法論と代議・多数決制の方法論とは対立しながら共存するとき、それらをどう調整するかが問題となる。しかし少なくとも、中央政府が、地元の住民の同意なしに、なんらかの計画を押し付けるなどということは、たとえ国会における多数の支持を受けたとしても、あってはならない。それ少数の人々の基本的な人権を侵害するという点において、民主主義に反するためである。基本的な人権を奪われるかもしれない当事者、その人々が政策を決定する方法論すなわち住民参加の中にこそ、民主主義があるかもしれない。

My own thought:

本節は、現代における民主主義の前提を再考すれば、多数決という方法論はもはや正しくなく、住民参加という方法論がそれに代わるものであるという主張であった。とりわけ、環境問題の分野では、被害の試算が難しかったり、不可能であったりする。上記の考え方や、学者名は有名なものばかりであり、今日の経済学の基本的な教科書に掲載されているものばかりである。私自身も、疑いを持たずに受け入れてきたものもあり、驚いた。現在の研究は理論と実践の間には何らかの制約が常につきまとうために、それをどのように克服していくのか、という点にあり、妥当な方法論が生まれたり、消えたりしている。この章はそのような意味で、常に自分でその主張の妥当性を考えるという姿勢を与えてくれた。次節は「環境政策の基本的構造」について考える。