Reading Report – 環境政策を考える #2

書名:
環境政策を考える

筆者: 華山 謙

報告者: Ryoya Suehara (M1)

Chapter I-2 / 成長と環境悪化の日本的特徴—都市化と環境の悪化

概要

1870年代の東京には、煙突はなく、野生動物に溢れていた。ところが一世紀後、1970年代の東京は、煙の層の底に無秩序に広がる、世界で最も汚染された都市へと変貌した。この一世紀の間に東京に起こった変化から、都市化と環境の関係を明らかにする。

一世紀の間に、東京の人口は10倍に、市街地面積は30倍に、また、上水道の使用量は50倍になった。石油に関しては、1870年代ではほぼゼロであったのに対し、1970年代では年間2500万キロリットルを消費した。このように、都市化の持つ重要な側面の一つは、単なる人口の集中、増大だけでなく、それを上回る資源消費の拡大が見られることである。このことが、都市化における環境の悪化と密接な関係をもっているのではないだろうか。前節(No.1)に述べられた作業仮説、すなわち特定の資源の極端な奪取が、一方における成長と他方における環境破壊とを同時に進めたという仮説を、以下、いくつかの資源について検証する。

1. 土地資源の浪費と住環境の悪化
東京は西欧諸国の諸大都市に対比して特徴づける第一の点は、住居環境が主として1-2階建ての低層住宅で占められ、その住宅が貧弱な点であろう。人口一人当たりの住宅床面積を比べると、東京8.5㎡、デトロイト34.5㎡、東ベルリン25.5㎡、プラハ11.5㎡であり、明らかに小さい。さらに、これらの40%がいわゆる木造アパートであり、これらは密集しており、日射と通風に恵まれず、火災に対しても無防備である。さらに、これらは主に昭和30年代に建てられたもので、老朽化とともに住居環境は悪化している。
東京の社会的な人口増減は1960年代から1970年代にかけてほぼ起こっていない。毎年60万人の人口流入があり、ほぼ同数の人口流出がある。しかし、その内容を見てみると、流入人口は主に年齢が低く、所得が低いのに対し、流出人口は年齢が高く、所得が高い。流出人口は主に東京郊外に移動しており、そこに新しい住宅を求める。それは東京郊外の環境が良いからだろうか?それは、地価の上昇のために新しい住宅の需要者は10年前、あるいは20年前の需要者に比べ所得が上がっているにも関わらず、貧弱な家しか建てられないでいる。
住宅のスプロール(都市が無秩序に拡大してゆく現象)は、郊外の鉄道駅を中心に始まるが、道路の整備は遅れて、従来の曲がりくねった田舎道を中心に、すぐ行き止まりになる分譲地の道路がこれを補うのみである。道路は自家用車にあふれ、歩道が失われる。また、このような地帯では、人口密度が十分に高くないため、バスも採算がとれない。とりわけ東京では、第二次世界大戦後、日本の経済が復興を始めたとき以来、土地価格は上昇の一途をたどり、その率は毎年20-30%でという高さであった。このような状態では、土地所有者である農家は、土地を売るよりもむしろ持ち続けることを有利だと考え、売る場合も所有地の一部を処分するに過ぎない。結果的に、東京は都市内部に広大な農地を残したまま進んだスプロールとならざるを得なかった。一戸一戸の住宅は狭小でありながら、人口増加をはるかに上回る勢いで進んだ土地資源の浪費が東京における都市化の環境悪化の第一の断面である。悪化の傾向にある根本原因は、私的資本の大都市への集中が遠因になっているが、直接的には土地利用に関して政府が適切な政策をとらなかったからである。

2. 自動車の増大と大気汚染
住宅の問題を別にすれば、多くの統計は社会が豊かになったことを示している。自動車の場合、1960年と1972年を比較すれば、自家用車保有台数は人口1000人あたり3.5台から76.2台へと増えた。しかし、これは環境の悪化をもたらすことになった。
自家用車の増大とともに、交通事故件数も増大した。また、東京(区部)においては、環境基準を都庁前で満たしたのは、1975年にわずか2.8%、日数にして10日しかなかった。東京都において、「公健康被害補償法」によって、大気汚染による公害病と認定されている患者の数は6000人に達した。
東京においては、明らかに適正な限度を越えて自動車が使われている。前述のスプロールが余分な自動車を必要とした側面を否定できないが、それ以上に重要なことは、都市成長の過程で、自動車台数だけがアンバランスに増大したことである。道路という公共財は、政府によって非市場的に供給されるのに、自動車は私的企業によってきわめて無政府的に供給され、相互を調整する機構が存在しなかったことに基本的な問題があるように見える。ここでも、自動車の台数を制限し、歩行者の安全を守るために適切な政策をとらなかった政府の責任は大きい。

3. 水資源の浪費と水汚染
東京都における水の消費量は経済発展とともに年々増加の一途をたどった。工業用水には、上水道以上に無駄使いが多い。工業用水の利用の内訳は、冷却用70%、洗浄用20%、その他10%である。冷却工程で使用される水は工程を変えれば、1/10から1/100まで節約することができる。また、洗浄水については、排水と水質との関係が重大な問題である。同じ汚染負荷があるとき、排水の濃度が高く体積が小さければ、高度が低く体積が大きい場合よりも、技術的にも経済的にも排水の処理効率は高くなる。つまり、洗浄に余分に水を使うことは、それだけ廃水効率を悪くしているのである。
また、東京の代表的河川である多摩川に廃水された下水によって東京湾は汚染された。ここでも、低廉豊富な水資源の供給を行うことのみを使命として、私的企業の水資源の浪費を規制しなかった政府の責任は大きい。
この水汚染に対して国及び東京都がとっている政策は、下水道の整備である。しかし、排水濃度規制について言えば、工場は汚れた水をきれいな水で希釈してパスしようとしているために、十分な効果をあげているとは言えない。また、雨のときには、その設備の処理能力を超え、その汚水が全く処理されずに環境に捨てられる。さらに、下水道のなかに工場廃水が混入することに伴う問題がある。この廃水中に含まれる物質が、活性汚泥中の微生物を殺し、終末処理場の全機能を損なわせる。このように、下水道の普及が必ず環境の役立つと確信することはできない。特に、工場廃水の混入は巨額な下水道投資の効率を著しく阻害している。
日本の沖積平野は、土層中に多量の水分を含み、企業は、この地下水を工場用水としてきわめて安く手に入れることができた。しかしそれが、かえって企業に地下水の無駄使いをすすめることになり、全国ほとんどの沖積平野において、地盤沈下を起こしている。地盤沈下は各種の社会的費用を要求する。まず、海岸や河川に沿って堤防を築き、たえずその嵩上げをくりかえさなければならない。橋梁の架け替えも必要になる。下水はポンプによってしか排出できなくなる。上下水道管、ガス管が切断される。ここでも、一端の責任は政府にある。私的企業のほしいままな地下水くみ上げに規制を加えずに放置し、その結果生じた地盤沈下をただの堤防の建設だけでとりつくろうとしたのは政府だからである。

以上に、都市化と環境の悪化の関係を、資源の浪費を媒介項としてみてきたが、都市における環境の悪化は、人口増そのものもさることながら、むしろ都市全体としての資源利用量の増大に大きく影響を受けていることが分かった。公共財に対する需要が既存の需要を越えるようになった後、なお都市が効率的であり続けるためには、市場機構を通じて発生する需要と非市場的に供給しなければならない公共財の供給とをなんらかの手段で制御するべきであった。環境政策を考える場合に華山氏が考える三つの原則は、(1)資源の浪費をやめ、消費する資源の絶対量を制御する必要があること(2)そのようにして限られた資源から最大限の効用を引き出す必要があり、そのためには、資源の独占的な使用・占用を排して、共同的な利用を拡大していくこと(3)(2)の原則を実現するために、既得権益者や相対的富者の所得や保有資源を、相対的富者に再分配すること、である。

感想

自由競争が最も効率的な分配を達成できるとする通常の財やサービスの市場と違い、ひとたび環境を考えると、政策の難しさを思い知らされる。華山氏も語っているとおり、環境政策とは、計画経済の色彩が強く、結果的には土地の私有権や企業活動を規制するものとなってしまう。しかし、一方で失われた環境は二度と戻らないか、戻るまでに膨大な時間を要する。この構図はこの書籍出版後35年経った今でも変わっていないように思える。華山氏によれば、環境問題の責任は政府の環境を無視した、経済成長のための民間企業の支援にあるようである。OECDが汚染者負担原則を採択したのが1972年であるから、当時の政府の迅速かつ広範囲な対応を促すものであったのだろうか?いずれにせよ、国民が政府を必要とする以上、両者はどこかで折り合いをつけることになる。次章以降、「消費者主権と環境」、「土地の私有権と環境の保護」、と続き、「環境政策と民主主義」で締めくくられている。両者がどのような対話をしてきたのか、大変興味深い。