大偏差統計に学ぶエリート

平成19年8月31日


1. はじめに

東工大の学生諸君は、好むと好まざるとに関わらず「エリート」として社会的に活躍することを期待されている。エリートは本来ラテン語で「神に選ばれしもの」のことであるが、転じて、高度な専門教育を受け、特定の分野で役立つ人材を指す。エリートの条件として、高度な専門性の他に、幅広い教養、高い道徳性(自己犠牲精神)、リーダーシップ、優れたコミュニケーション、など、能力・人格ともスーパーマンクラスの素養が求められている。そんな人いるのだろうか。いずれにしろ、このような定義は、定性的で、エリートを目指せ、と言われても、高尚すぎて具体的にどうして良いのかわからない(と、ワシは常々感じておった)。ここでは、素養などの個々人の内的条件ではなく、より計量化しやすい社会的外部条件により、エリートを単純に再定義することによって、学生諸君の目標設定の一助になることを目指したものである。ワシの考えるエリートとは以下の2条件である。



2.<第一条件>大偏差統計としてのエリート(8割2割の法則)

自然現象・社会現象の中には、平均値の周りのゆらぎが非常に大きく、分布が時間的にも空間的にも強い偏りを持っていることが多い(例えば、「複雑な世界、単純な法則」、草思社)。これを大偏差統計という。経済学で、パレートの法則というのがある。社会全体の所得の8割が、わずか2割の高額所得者によって占められるという。乱流においては、地表―大気間で鉛直輸送される運動量全体の8割が、わずか2割程度の特別な渦(組織渦と呼ぶ)によって担われている。また、あの松下幸之助も、組織は2割の人によって8割の人が養われている、というようなことを言っている。お金はお金持ちのところに集まる、仕事は仕事の出来る人のところに集まる。なんと不平等な現実だろう。多数派を占める平均値周りの人々の合わせ技ではなく、2割の頑張りで組織の生産性が決定されているかもしれないのである。ワシは、エリートの第一条件として「所属する組織において生産性の8割を担うTOP2割に含まれている」、ということを挙げたい(誤解のない様に補足すれば、8割の人の存在は不要ではなく、組織の構成要素として必要不可欠である。4番で豪腕ピッチャーを擁するワンマン野球チームでも、投手と捕手だけでチームが成立しない、のと同じである)。また、8割組の人だけで新たなグループを作ると、そこから生産性を担う新たな2割が生じる。逆に、2割の精鋭を集めてドリームチームを作っても、そこで新たな8:2の分化が起こる、という。大偏差統計としてのエリートは、個人資質として固定されたものではなく、組織と個人の相互作用の中で流動的なものである。入学試験、入社試験というスクリーニングを経て組織に所属した構成員の個人的資質・能力の間には、埋めがたい程の差があるわけではなく、トップ2割になるかどうかは、その人の覚悟と努力に依っている。



3.<第2条件>行動最適化の境界条件

人間は広い意味で、「自己充足: fulfillment」を目的として行動する。ボランティア・国際貢献などは利他行動であるとも言えるが、他を利することによって自己充足を得ているとも言える。大胆にも、人間行動を目的達成のための最適化問題と捉えれば、その最適化の境界条件をどこに設けるかが大事である。自分だけの最適化なのか(=自己実現:realization)、自己を中心に家族や友人を含めた最適化なのか、自己を中心に所属組織を含めた最適化なのか、自己を中心とした自国の最適化なのか、自己を中心とした世界の最適化なのか、その境界条件の置き所によって、人物のスケールが決まる。トップ2割は、その生産性もさることながら、最適化の境界条件を組織に置いているかどうか、それがエリートの第2条件として問われる。トップの最適化が自己実現のみに向けられている組織は悲劇である。個々人が「我田引水」に走ると、組織全体としての最適化は損なわれ、ひいては個々人の最適化も損なわれる。危機管理時において、しばしば、組織と自己のニ者択一が迫られるが、エリートは、自己犠牲的な選択によって、まずは組織の最適化を図り、その献身性によって、より高次の自己充足(fulfillment)を得るようでなくてはならない。



4. リーダーとの違い

リーダーとなるものはまずエリートでなければならない。つまりリーダーはエリートの部分集合である。エリートの中で、統率力のあるもの、コミュニケーション能力に秀でたものが、リーダーとなれる。リーダーには生まれ持った性格・資質というものが要求されるが、エリートは自分の努力と心がけ次第で誰にでもなれる。



5.「エリートと呼ばれること」の勇気

TV番組で、東大学長の小宮山氏が、シドニーオリンピックで果敢にラストスパートを仕掛け金メダルを手にした高橋尚子を例に上げ、「世界のトップに立つ勇気」の重要性を強調していた。8割の平凡でいるのは、楽チンだし、安全だ。エリートだと自らを認めることは、(出る杭は打たれる日本においては)勇気が必要である。講義などで「諸君はエリートだ」、と鼓舞すると、「自分は平凡でありたい」、「エリートになると苦労が多く大変なのでなりたくない」、「人間は平等なのでエリートというのは差別だ」、「ささやかに平穏に生きたい」等々、大衆に紛れ、平凡を望む声が聞かれる。もちろん、平凡を望む気持ちは否定できない。このような風潮になってきた原因の一つに、工業立国日本において、その生産性を担ってきた工学エリートも、努力したわりには大して報いられず(例えば、「理系白書」:毎日新聞社)、自分の子供だけには、知らずのうちに、「偉い人なんてならなくていいぞ、8割組の方が断然美味しいぞ」、と言うことなのかもしれない。しかし、大偏差統計が示すように、8割の人間がのんびり休息している間にも、ひたすら組織の生産性を担い、組織の屋台骨を支え続ける2割のエリートが必要なのは、厳然たる事実である。全員が8割を目指せば、その組織は斜陽となる。また、「自分の人生、自分で選択して、自分がハッピーと思えるように振る舞うのが一番良いのだ」、という意見も多い。そうかもしれない。しかし、第1条件を備えた2割の人々が自己実現だけを御旗に、リスクを背負わず、周囲を顧みなかったとしたら、組織・社会は殺伐としたものになるであろう。バブル後、食品・安全・政治・金融・教育、など様々な分野で繰り返されるトップ(役員)の不祥事は、第2条件の欠落による結果なのかもしれない。